2026/01/10
本稿は、音楽を通じて表現される個人のアイデンティティと、日本社会における性別規範の構造的圧力との関係を論じるものである。筆者である叶音ゆいは、自身のボカロPとしての活動を通じて、性別二元論や「普通」という社会規範に対して異議を唱えている。日本においては、社会的秩序や協調性が重視される文化の下で、個人の感情やアイデンティティはしばしば抑圧される傾向がある。
楽曲「生きることすら頑張ってるのに」は、日常生活での努力が社会的に評価されない個人の状況を描写している。日本社会では、性別役割や年齢、空気を読む能力が価値基準となるため、個人の努力や苦しみは顧みられにくい。
「大丈夫?」って言葉が 大嫌いだった
大丈夫なわけが 無いじゃんか
誰よりも 頑張って 生きているのに
誰も 僕のことを 褒めてくれない
この歌詞は、日常生活における努力の価値が認められない状況を象徴する。個人の生存そのものが困難である場合、さらに「頑張れ」という圧力は心理的負荷として作用する。
友達とか 同僚とか 結局他人だからさ
僕は僕の ものさしでやるからさ
他人と比較しないでよ 僕は僕だ
ここでは、社会的比較や他者評価に基づく自己規定に対する批判が示される。日本文化においては、和を重んじる価値観の下で他者との比較が無意識の規範となることが多い。筆者は自身の尺度で生きることが、心理的安寧を得る手段であると示している。
楽曲「死んだ心と死ねない私」は、感情表出が困難な文化的環境における個人の心象を描写する。喜びや希望が抑制され、負の感情のみが顕在化する状況は、個人の表現の自由を制約する。
楽しいとか 嬉しいとか
明るい気持ちは 何も分からなくてさ
悲しいとか 死にたいとか
暗い気持ちしか 湧かなくてさ
日本社会においては、感情を押し殺し、空気を読むことが美徳とされる文化が強く、個人が自分の内面に正直であることはしばしば困難である。
笑うとか 泣くとか 何もかも疲れた私は
誰にも 見えない場所で きっと...
感情抑圧は日常生活の基盤にまで影響を及ぼす。音楽は、沈黙を強制される社会において個人が自己表現を行う有効な手段である。
日本社会における「男らしさ」「女らしさ」の固定観念は、個人の行動や感情を規範的に制約する。クィア理論の観点から性別は生得的属性ではなく、社会的・文化的に構築されたラベルである(Butler, 1990)。この枠組みに従うことは、個人のアイデンティティや自由を制限する可能性がある。
筆者は、公的書類や制度における性別選択に「その他」を導入することを提案する。これは、既存の二元論では包含されない存在を社会的に承認することを意味する。性別を個人のアイデンティティのみに依拠せず、制度的に認めることは、心理的安全と生存権の保障につながる。
叶音ゆいの楽曲は、単なる感情表出ではなく、性別規範や「普通」の暴力を可視化する行為である。音楽を通じて、個人の存在や感情が否定される社会に異議を唱え、制度や文化に対する批判を提示する。
音楽で許される表現を現実社会でも成立させるためには、「その他」という選択肢の社会的承認が不可欠である。個人の存在や感情を制度や文化が否定しないことは、生活の質や精神的安全に直結する。
叶音ゆいによる音楽表現は、性別二元論の圧力に抵抗し、沈黙を強制する文化に対抗する方法である。楽曲は、単なる個人的表現に留まらず、日本社会における「その他」の承認を求める静かかつ確実な社会的抵抗である。音楽は、個人の感情や存在を社会的に可視化し、文化的・制度的規範への批判を提示する重要な手段である。